●「私だったら死ぬ」投稿はヘイトスピーチ 立岩教授に聞く ALS「安楽死」事件20.08.23. (個人的にこの記事での指摘はとても重要. )・死にたいと思っている人がいて、それを助ける人がいる。その構造は共通している。・安楽死の法制化を言う人は、「助ける」度合いや条件をルール化して「ちゃんとした」制度を作ろうと試みるが、そもそもの構造が間違っている、とまず指摘しておきたい。死にたい人を助けること、それ自体がダメだ、と。 ― 自殺する自由、死ぬ権利という言い方もある。では、その自由がない人、権利を行使できない人はどうするのか。例外的に「死を助ける」ことはあり得るのでは?→ 自殺の問題から考えると良いかもしれない。「死にたい」という人はたくさんいるが、「死ねる」制度やルールを作るべきだろうか。社会としては「死にたくてもやめなさい」という立場を取るべきだろう。穏当な建前論に聞こえるかもしれないが、こうした建前は意外に大切。 ただ、自殺の場合は、制度化されていなくても実行できてしまう。実際に年間2万人近い人が自殺で命を失っている。そうすると、他人の助けがないと「死ねない」というのは不平等、不公平だという言い方は確かにできる。だから、あえてこう言ってもいい。自殺ほう助はあり得る。死を助けることはできますよ、と。私は「死の権利」を100%認めないわけではない。ただ、助けたいのならば、罪に問われるぐらいのことは覚悟すべきだ。 自殺ほう助に対して一定の刑罰を科すことに合理性があるのは間違いない。歯止めがなくなると、手伝いたい人、商売にしたい人が出てくる恐れがある。― 究極的には個人の決断であり、社会制度として作るべきではない、と。 立岩 そもそも法制化を掲げる人は、究極の状況を「改善」するために議論しているわけではない。そうしたケースは一種の方便として語られるだけで、本音は「命の選別」を進めたい。だから、極めて例外的な状況に対しては、あえて「罪を覚悟したら可能だ」と反論しておく。 付け加えておくと、自殺ほう助に医師が関わるべきではない。命を助ける仕事、人を生かすために働く人が、殺すことを引き受けるのはリスクが大きい。「死にたい」と思い、言ってしまう状況の改善を優先すべき、というのが私の考え。「死ねる」条件を探すのではなく、死にたくなる状況が何に由来しているのかを考える。社会の対応が不十分なまま、いろんな手が打てるのにサボったまま、「死にたい気持ち」に応える制度を実現してあげましょう、というのは順序が違う。 「死にたい」と思う多くの人は同時に生きたい人でもある。死なずに済んだはずの人がたくさんいる。「死ねる制度」ができると、命はより多く失われていくだろう。困難な状況で生きている人に対して、「わたしはあなたの状態が死ぬほどイヤです」というのは、相当強い否定だ。 例えば、なんでもいいですよ、「私がもし黒人として生まれたら、生きていられない、死んじゃう」とかね。相手の属性・状態を、命という非常に重いものと比較して、それに劣ると指摘するのは犯罪的だ。 ある状況を指して「自分ならこうしたい」と公言することは、常に他人を傷つける恐れがあることを意識するべきだ。自らの死について将来の望みを家族や病院の人に打ち明けることと、SNSなどで「自分はそうならない」ことを知った上で「そうなったら死ぬ」と書き込み、公言することはまったく違う。● 「安楽死」要望、周囲に知らせず 支援者ら、今も受け止めかね ALS患者嘱託殺人事件 20.07.30.https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/315476ー家族も周囲の支援者にとっても、寝耳に水の出来事だった。ーまだ人工呼吸器の装着を急ぐ段階ではないし、呼吸苦を取るための緩和医療を濃厚に行うべき段階でもない、とのことだった。ーSNSのアカウント名は家族にも誰にも教えてなかった。 (当然) ◎社会共通資本があったほうが生存できたのがもしれない。 死に追いやるまでに、相談できるという心理的垣根(閾値)の存在?●ゆみこさんのFB記事から「家族が無理やり延命してしまうなどといわれますが、ALSの場合はその逆で、むしろ家族が呼吸器装着を認めないことがあります。それは患者の生存が家族にとって長期にわたる多大な負担になるという構図があるからです。家族にとって患者の生存が脅威になるようなら、家族関係を整理して患者の真の自己決定を実現するようにします。」「人間には、なんとしても目前にいる人の死を避けよう、救命しようとする本能があり、人間性の最も尊い部分をつかさどっているのです。たとえば他人がホームから転落して電車にひかれそうだったりすると、我が身を捨てても助けようとすることがあります。しかし、昨今は死をタブー視せず、「自然に」看取ることに慣れなければならないといった風潮があります。この「自然」が曲者で、それは一歩間違えれば、救えるかもしれない命をあえて見て見ぬふりをして死なせてしまう、という過ちにつながりかねないものです。では、どうしたら他者を傷つけずに自己決定で死ねるのか、ということですが、やはりそこには「患者の権利」が確立されていなければならないのです。 死をタブー視せず、自然に看取ろう、自己決定でなら死んでもよいなどとする風潮を省みぬまま、「死ぬ権利」を法制化して不治の病人に限った特権にすると、私たちは次々に老い衰えた人々を死に廃棄することになり、「何とかして救わなければいられない」という人間性の最も重要な部分を捨て去ることになると思うのです。」 ● 毎日新聞...