めったにないのだけれど、
優秀な同期や後輩の「本気」を目にすることがある。
そして、その「本気」見て、自分よりも優秀だと悟った時、
とてつもない劣等感に苛まれてしまう。
自分は今まで何をやってきたんだと。
努力なんてかけらもしてこなかったんじゃないかと。
志高くいるつもりになっていただけじゃないかと。
実際に、自分は本来いるべき場所に到達するにはまだまだである。
それは知っているはずなのだけれど、つい、惰性というか、
もとの日常に戻ったらその「忘れてはいけない事実」を忘れてしまう。
忘れたくないと思っているはずなのに。
そういう意味で、自分よりも遥かに優秀な同期や後輩が周りにいるという環境は本当に素晴らしいものであるとつくづく感じる。
少なくとも僕にとって、成長は、厳しい環境の中でしかありえない。
僕には、一人で高い視座を保ち続けることはできない。今のところ。放っておかれると、つい平衡状態というか、平和な日常へと落ち着いてしまうのである。おいしいごはん食べたり、大好きな友人と過ごしたり、休日に二度寝してみたり。
かといって、それが悪いとは微塵も思わない。
そしてそんなことを考えていると、第二の問いにぶつかる。
すなわち、ワークとライフ、どちらが自分の人生において大切なのかという問い。
ここでいう「ワーク」と「ライフ」という言葉の定義について少し触れておくと、「ワーク」とは比較的社会的なつながり・コミュニティ要素において価値を発揮しうると考えられるような人間の行動を指す。すなわち、社会的欲求を満たすことのできる行動がワークだ。
一方、「ライフ」とは、私的満足感・個人の欲求を満たされうる人間の行動を指す。ライフが重視するのはまさにその行動を起こす個人が、どれだけ自分を幸せにしうるかみたいな話。
ちなみに基本的に僕は、「仕事」と「遊び」の本質(内容)は同じだと考えている。したがって、行動を分類することで仕事・遊びを分類することはナンセンスだし、また、そこに金銭的報酬が発生するかどうかなんて分け方もナンセンスだと考えている。(本質的には。)
さて、回り道はこの辺で。
結局、自分はどう生きていたいのかと。
何のために生きているのかと。
社会の中で必要とされる人でありたいと思うし、
そこで発揮できる価値が大きければ大きいほど、嬉しく感じてしまう。
知性が欲しいし、僕にしかできないクリエイティブな仕事をしたい。
常に高い視座をもってる人でありたい。
だからと言って、自分が大切にしている時間も失いたくはない。
大切な人、家族と過ごす時間は犠牲にしたくない。
休日に淹れるコーヒーはおいしくしたい。
本を読んで他人の世界を見てみたいし、たまに映画だってみたい。
しかし、1日24時間しか与えられていないという事実は、変えられないし、実はこの事実って世界中に生を受けたものにとって数少ないフェアな条件でもある。
だから、24時間をどう使うかについてはとっても考えるようにしている。トレード・オフという言葉が指すように、ある行動を選択したのならば、別の行動は犠牲にせざるを得ない。
ちなみに、ここで選択しなかった行動は現実には起こらなかった行動であり、疫学の世界では「反事実」と呼ばれる。(誰もこんな情報いらない。)
とにもかくにも、あれもしたいこれもしたいっていう、わがままを吐きたかったわけです。
そう、この記事で言いたい結論は、
「やりたいこともやれないこんな世の中じゃ、POISON!!」
(引用・改変:反町隆史)