2021年1月26日火曜日

社会関係資本(人のつながり)と、食との関係性の考察:人はみんなで食べないと(共食)生きていけないのか?

二度目の緊急事態宣言を受けて飲食業界はもう大変なことになっているだろうと心中お察しします。しかもなんと、1カ月を軸に延長を検討となると、経営としては本当にしんどいだろうなと。実際、京都の街並みを歩いていても、新京極や祇園といった主要なストリートですら空き店舗、テナント募集中の看板をいくつもみかけます。目も当てられないです。

僕個人としては、外出自粛をすべきだということも理解できるし、営業自粛をすると外食産業は直ちに経営が立ち行かなくなるということも理解できる。どうしたらいいのかといわれてすぐには答えは出せない。

こちらも記憶に新しいだろう。先週も、大手ファミリーレストランチェーン店のサイゼリヤ、堀埜一成社長の【ふざけんな】発言が話題になった。 https://www.fnn.jp/articles/-/130601

ここで考えてみたい。
人は、みんなで食べないと、生きてはいけないのだろうか?」と。






人はなぜ、「みんなで食べるのか」?


とある医学生向け留学情報サイトに対して、「口が開けば心も開く」という言葉を寄稿に残したことがあります(https://inoshiru.com/column/016/)。
ここではその文字通り、食はコミュニケーションの起点として重要な枠割を果たしており、食文化とコミュニティの在り方とはやはり切っても切り離せない、というような議論を展開しました。

ここで大事な議論があります、それは「食べるために仲良くする(生存のため仕方なく)」のか「仲良くするために食べる(コミュニケーションとしての共食)」のか?というお話です。


仮に、「食べるために仲良くする(生存のため仕方なくみんなで食べる)」ことが、人間の性であるならば、それはすなわち、「仲良く食べる」という行動をとらなかった場合、人の生存は脅かされる可能性がある、と解釈することができます。(仲良くしなかったとしたら「食べる」ための可能性が減ると考えられるため。)

であるとすれば、外食産業を規制することは、かなり危険です。
なぜなら、多くの現代人にとっての【みんなで食べる】場とはすなわち、外食の場であるといっても過言ではないからです(もちろん、昨今でもホームパーティーやってたりするのは知っている)。

誰かと一緒に食べる人がいる、つまり住まいが家族一緒ならこれは問題にならないでしょうけれど、核家族化の進行や独居世帯の増加傾向(特に高齢者は注目されている;https://mainichi.jp/articles/20190420/ddm/001/040/140000c)を見ていると、ひとりで食べる「孤食」している人は増えていそうです。

実際、with コロナの時代でアンケート調査してみると、「孤食」していると答える人は大きく増えるのではないでしょうか。
 
cf. H.29現在の孤食割合は15%くらいみたいですね。同じデータによると、単独世帯は既に25%以上。
https://www.maff.go.jp/j/syokuiku/wpaper/h29/h29_h/book/part1/chap1/b1_c1_1_03.html


人は、コミュニケーションを取らないと死ぬのか?


ではちょっと食から離れて、ひとはコミュニケーションを取らないと本当に死んでしまうのでしょうか?コミュニケーションの代表としてスキンシップやアイコンタクト、言葉による意思疎通があると思うのですが、これが完全になくなってしまったら...?


ここに、とある残酷な実験のお話を持ってきたいと思います。
「失語試験」とでもよびましょう。
今から800年前、1220年代頃の記録です。ローマ皇帝シチリア王のフリードリヒ2世という方がいます。彼は薬剤師の誕生に貢献した人物としてよく語られますが、実は残酷な人体実験を繰り広げていたことでも記録が残っており、そのひとつが、今から紹介する「失語試験」です。

これは、50人の赤ちゃんにした人体実験です。
フリードリヒは、「赤ちゃんと、抱っこや目を合わせたり語りかけたりなど、一切のスキンシップを排除して育てるとどうなるか?」という仮説の実証実験を行います。

条件としては、ミルクを与えるといった栄養条件は十分にするし、排泄等の生命維持に関連するお世話もするが、その際に【目を合わせたり話しかけたり笑いかけてはいけない】というものです。コミュニケーションをとらないように教育された人たちが世話をするということです。


その結果、50人の赤ちゃんはなんと、全員死亡したそうです。


これには、成長ホルモンが分泌されなくなるからだ、などの解釈がなされていますが、確定的な理由はわかりません。(というのも、昨今このような実験を行うのはあまりにも非人道的でありどうかんがえてもヘルシンキ宣言に則っていない。許されないということですね。)


1200年代ということで、衛生条件が芳しくなく、0歳児の子供の乳児死亡率は今ほど低くなく、20%くらいはなくなっていたとは考えられなくもないですが(今のアフリカではだいたい0.5%くらい)、それにしても産んだ子が100%死んでしまうのでは、その生き物はその世代で絶滅してしまいます。

ということで、現象だけをみてみると、どうやらこの実験から、「人は、コミュニケーションを取らなければ死んでしまう」という解釈も可能ですね。極端ですが。。


人と人とのつながり:社会関係資本


実はこのように、コミュニケーションと、人類の生存とかwelnessとかは密接に関連しているとの考えを提唱するひとが他にもいます。ヘルスケアの分野にも台頭してきていて、例えば【社会関係資本】なんかは有名です。ソーシャルキャピタルという言葉でも言われてて、もともとは教育学分野の用語です。日本では宇沢弘文(理学博士をもってる経済学者. -2014)あたりが提唱者として有名です。

社会関係資本とは、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念で、これが健康に大きな影響を及ぼすともいわれるようになってきています。単純化してしまうと、「人と人とのつながりが、健康に影響する」ということです。
https://toyokeizai.net/articles/-/384561


その内容については『社会的共通資本』の中に詳しそうです。
* 社会的共通資本 と 社会関係資本とは異なります。
 社会的共通資本とは、平たく言えば農業だとか、鉄道、道路、教育みたいなインフラ的なものを指した言葉です。


「食と関係性(つながり)」の関係性


このように見てみると、どうやら【ひとは、コミュニケーションを十分に取らなければ死ぬ】と考える人も一定数いそうなことは確かです(極端な議論ですが)。

もちろん、私たちが「食」をしている間に「しゃべる」ことは必要ではありません。むしろ効率的に食べるならしゃべったりしない方が早い。(しかしながら、コミュニケーションをしながら、もしくは複数に群れて食べることの利点は、食以外の危険性を察知できる可能性が高くなるという点もあります。現代社会、人間にとっては食べている間の時間に危険など天災くらいしかないと思うので、人間にとっては無関係ですが、、。)

では逆に、「関係性」を人々の間に作っていくにあたって、「食」は必要なのでしょうか。少なくとも私にとって、「食」というものは相手との関係を大きくアクセラレートしてくれる触媒となってくれています。

今でこそ機会は減りましたが、やっぱり誰かと話すとき、お茶だとか食べ物だとかが目の前にある方がいい。これがあるかないかでコミュニケーションの質や内容は絶対変わってくると思うんですね。


人々から「共に食べる」機会が奪われた今、人間同士の関係性はどのように変化していってしまうのでしょうか。

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参考文献


1.社会共通資本について

 
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参考URL


・<サイゼリヤ社長の発言について>
FNNプライムオンライン
 https://www.fnn.jp/articles/-/130601

・<失語試験について>
ーhttps://rakuzanet.jp/baby-physical-contact.html
ーhttps://blog.webcamper.jp/scary_experiment
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
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