2018年9月10日月曜日

日本人が大切にする「包む」という考え方について思うこと ~ Whole Wrapping World ~

いろんな包むを考える。


布で包む。

紙で包む。

フィルムで包む。

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商品を包む。

プレゼントを包む。

気持ちを包む。


包むものと、包まれるもの。
二者の関係性は、あまりにも尊い。


「包みたがり」な日本人。


日本人だけじゃないのかもしれないけれど、たぶんこれほど「包装」を大切にする文化をもつ国民はいないのではないかと思う。

ぱっと「包む」関連ワードで検索してみたけれど、案の上、「株式会社包む」なんて会社が出てくるし、なんか「なんでも包む」機械なんてのを開発しちゃったスーパーおじさんみたいな人が特集されていたりする。
ちなみにこの包む機械のおじさんは、「レオロジー」という学問に着想を得たのだとか。
薬学部のときに、ダイラタンシー流体とかニュートン流体とかチキソトロピー性みたいなのをやった気がするけど全然覚えてないや。


ともあれ、僕たち日本人は、なんでも包んでしまうのである。
とりあえず包んでおけばいいと思っていたりする(というのは多分僕だけ。)


日本人が「包装文化」を大切にしているというのは、なんとなくわかる人も多いと思う。
「包む」といえば、贈り物を思い浮かべる人がたくさんだと思うけれど、海外の贈り物って、ラッピングしてなかったり、あったとしてもつまらない包みが多かったりするのではないだろうか。僕には、そういう包装の粗雑な(でも中身はちゃんと立派な)プレゼントをいただいた経験がある。


風呂敷に、ご祝儀に...日本人の包装文化


比べて日本人は、とにかく何でも包みたがっている気がしてならない。
例を挙げてみよう。

まず、武家社会の頃からか知らないけど、「風呂敷」なんて代物が古くから存在する。
結び方なんてのもちゃんとあるし、この風呂敷文化は未だに存在する。
アメリカ人から、「ほどいたり結んだり面倒やし、鞄でええやん」なんて突っ込まれそうである。

続いて、ご祝儀とか贈答品とかがすごい。「ふくさ」に包んだご祝儀袋を渡すわけだけれども。このご祝儀袋自体が、水引で結ばれて(包まれて)いるし、開けたら今度はまた袋(中袋)がでてきて、中袋の中に、紙(中紙?)に包まれた紙幣がでてくるなんてこともある。

何回包めば気が済むのだか。
多分国外の人からしたら信じらない。
アンビリバボーである。


外国人にとっての「包む」を考える


 ちょっと海外映画とかに気を使って、例えばクリスマスプレゼントの開封シーンとか見てみてみよう。(「ハリーポッター」とかに出てきそう。)

届いた荷物をとにかく素早くババッと破いて、
中身を目にしてようやく
「ふぅぅぅわぁ~~~、見ろよ、ニンバス2000、新型だ!!」
なぁんてなるのである。主役はニンバス2000、中身なのである。
(元ネタ探したらあったので動画を。。)






「とにかく大事なのは中身」という印象を抱く方も多いのでは?
3人で箒の包装を開けるシーンよりも、中のモノが姿を現してからの方が心持、協調されている気がするのは僕だけだろうか。

ちなみに包装が陳腐であることにも気づいた人もいるはず。これは実は贈るだけに責任があるわけではない。受け取る側も「包み」でなく「中身」を重視してしている。どちらにとっても中身が大事なのだから、「包もう」という包装文化は醸成されないわけである。


包むこと、開梱すること、その"プロセス"が尊い。


いろいろ脱線しつつ、「包む」文化を国際的な視点も交えてみてきたわけだけれども、僕は日本人の「包む」文化を否定していない。それどころかあまりの尊さに慄いてしまうほどである。


僕はプレゼントを贈るときの、荷造りの時間が一番好きだ。
どうせ「ほどかれる」のだからなんて考えてはいけない。行きつく先が中身であることなんて、誰でも知っている。荷造りという手間が生み出す、送り手へ想いを馳せる時間ほど尊いものはない。誰も見ていなくても、そこにかける時間は、僕にとっての無限の価値を生み出している。


では、プレゼントを送られてきたときはどうだろうか。当然、開けるまでのプロセスが尊いのである。ゆっくりゆっくりと梱包された紙や箱を解いてい瞬間。その瞬間が長ければ長いほど、自分の心は相手の想いへと近づくことができる。


こんなに素晴らしい思想があるだろうか。


そういえば、細胞は。DNAは。。


「包む」という概念は、生命の根源にも通じているのではないかと思わされることが多々ある。

生命にとって貴重な単位である細胞は、二重となった主要な膜に加え、多くの膜を内部に有する。細胞膜(一番外側)と核膜。さらに、ミトコンドリアも二重の膜を有しているほか、ゴルジ体というタンパク質を輸送するための膜もある。

これらの細胞内小器官はすべて、何かを「包む」ことで生命現象の営みに極めて重要な役割を果たす。



そして、我々の遺伝情報をコードしているDNAまでもが、「包む」ことでその恒常性を維持する。すなわち、DNAとよばれる二重螺旋の遺伝子の鎖は、「ヒストン」と呼ばれる塩基性のタンパク質を包み込むことで、鎖どうしが凝集し、まとまった形(ヌクレオソーム)を形成することができるのである。




「包む」と、幸せになるんじゃないかな。


私たちの身の回りが、それだけ「包まれて」いるのなら、「包む」ことで幸せになる人って、たくさんいるんじゃないのかなって思うことがあったりする。

モノを包む、贈り物だけじゃない。
「包む」で発想はいくらでも膨らむ。
例えば、町ごとシャボン玉で包んでしまうとか。
あと。綺麗な色で建物を包んでしまうこと、これをコーティングという人もいる。
細胞表面をさらにタンパク質で包んでしまうとか(あ、これ僕の研究。)。

人の心だって、包んでしまうことができる。温かい気持ちで。
音がその場を包み込むことで、雰囲気が醸成される。
匂いは見えないけれど、包むことも、包まれることもできてしまう。

包むものと、包まれるもの、どちらがいいということはなく、
両者の関係性そのものが尊いである。


ちなみに、サランラップの発祥は...


ここからは蛇足でしかない。

「包む」ことを扱っていてふと思い出したのはサランラップ。
これ、日本発祥なのかな、と思ったらどうやらそんなことなさそう。

戦争において弾丸を湿気から守るために使われていたのだそう。驚き。
とある記事にこんなふうにかいてありました。。

実はこのラップ、初めから台所用品として開発されたものではなかった。開発直後に使われたのはこの時代の定石どおり戦場。悪環境の太平洋戦線で、銃や弾丸を湿気から守るための包装材として使われたのだ。
さらにジャングルなどで兵士を悩ませた蚊から身を守るための蚊帳や、水虫防止のために靴の中敷にも使われたという。終戦後、このラップに改良がほどこされ、チーズの包装に使われるようになったのだそうだ。

もっとちなむと、サランラップの語源は、開発した二人の技術者
「アラ」さん&「アン」さんにちなんでいるとのこと。


さて、
敷いた伏線は、回収の仕方が大事。
どうしましょうね、サランラップ。



参考URL:


次のURLを参考にさせていただきました。

株式会社包む


「なんでも包む」機械で世界一!
食品包装用ラップは戦場必需品だった