2020年4月20日月曜日

他人の人生・時間を背負って生きていく覚悟:コミュニティリーダーシップと責任感

この感情は、即自的に残しておく方がいいと思ったので筆をとる。

今思っているのは、
人の人生とはいったい何なのだろうかということだ。

たった10分やそこらの決断が、他人の人生の道を一つ遮り、別の方向へと進ませてしまうことがある。もう、遮ってしまった方には戻れない。

こうした一連の意思決定の流れを、一般的によく「選択」という。
この選択がいいものになるのか、はたまた失敗かなんてことは、誰にもわからない。
(どちらになるのかわかっているものはもはや、選択ではない。事実だ。)





他人の時間をいただくということ


自分がいま生きている時間は、他人から与えられた時間も含めて生きている。
そういう風に感じている。

例えば、
実験を指導してくれる時間。先生は僕の人生のために、先生の人生という時間をくれている。命を削ってくれている。

ご飯やお洗濯をしてくれる時間。お母さんは僕たちに命を削ってくれた。

秘書さんがコピーを取ってくれる時間。日程調整をお任せする。お金という対価で、秘書さんは命を削ってくれているわけだ。


会議の時間。世間話の時間。
どんな話をしているのかにもよるが、これもやっぱり誰かが誰かのために時間を使っている。それを無条件でやる人だっている。


高校生くらいからこれ、僕は全部頼まれる側だ。(お母さん以外。)
小学生のときにサッカーしてた頃、これ、できてたっけ。

そんな小さい人間だから、他人に自分の時間を使ってなんて頼むようなことを、できっこない人間になってしまっていた。こんなにも度胸が必要なことだったのか。

家族であれ、学生のサークルであれ、会社(企業)であれ、なんであれ、どんなコミュニティでも意思決定というリーダーシップをとる人がいる。その偉大さは、本当にリーダーになるまではわからないんだな。フォロワーは、どれだけ強くたって、いつまでもフォロワーなのか。

リーダーにならなくちゃいけない。



「俺の1分で何人の雇用がかかっていると思うんだ」


昔、ソフトバンクは孫正義さんの、言葉を聞いたのを思い出した。
彼がこれだけ「他人の命を頂戴する覚悟」を自覚しながら行動しているのは本当にすごいと思う。

前までは「自分の使う時間に対する感覚の鋭さ」があり得ないほど研ぎ澄まされている。
という認識でこの言葉をとらえていたけれど、それ以上の重みがあるんだな、と今なら思える。他人の時間にも責任を負っているのだ。


そうか、起業家やリーダーの、「俺についてきてくれ」というだけの覚悟はこれ程にも大きい。なるほど、そりゃ、起業家は孤独だ。鬱にもなるわけだ。他人の人生を背負う、その重みに対して、一瞬たりとも挫けてしまうことが許されないのだ。



こうした感覚?感情?なんていうのだろう。
体験(感情を伴った意思決定)によってしか得られないものがあるのだな。きっと。


もう、勉強はやめよう。学習することを放棄する勇気を。


これまで、少しばかり身の振り方が器用なせいか、
うまぁいこと、自分のやりたいなと思っているようなことを、ある程度のレベルではあるけれど、妥協せずにやってこれた気がする。

だけど、もう自己実現のために、捨てなきゃならない何かを背負うには十分な年齢な気がする。自己投資なのかなんなのかわからないような中途半端でどっちつかずな知識に限って、ひたすらがむしゃらに固執してきたような人生はもう、やめよう。

入れるべき知識・起こすべき行動にちゃんと優先順位をつけなくては、自分の周りの大事な人まで失ってしまうことになりかねない。
そうしないと生きてはいけない環境が整ったのだ。
機は熟した。って言葉通り。


いらない勉強をすることはやめだ。
本当に成果を残して守りたいものを守れるようなことをしよう。



レイモンド・チャンドラーの言葉は、他人の人生(コミュニティ)に対して自分の人生を重ねたとき(リーダーシップを発揮する覚悟を取った時)に、その本当の意味を理解することができる。

「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」
If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.




※思い思いのことをありのまま、つづったので、なんか意味わからない怪しい随筆みたいになっていますがご容赦を。20.04.20.