2019年1月24日木曜日

同期と話すことが一番モチベートされる。刺激を受けるのは、年下でも年上でもない。

同期と話すること、ありますか


今日は本当に久しぶりに同期とご飯に行った。
全然普通に新年会って感じで集まっただけだったのだけれど、個人的にこれがなんだかとってもモチベートされるきっかけになってしまった。

振り返ってみると、ここ数年は活動していた学生団体の都合上、
後輩とのおつきあいがほとんどであった。





さらに、年に数回ある研究室のメンバーでやるパーティー(そのほとんどはwelcomeかfarewell)もあるけれど、そこで話すメンバーはやっぱり同期ではない。ほとんどがもう子持ちの30代の方とかそれ以上の方。

研究室には同期もいるけれど、7人中6人がが留学生だし、そもそもコミュニケーションが近すぎるので話すことはと行ったら、研究のプロジェクトについてがほとんどである。

そういうわけで、久々に同期と話したのだなって、事後に気付かされた。
これがとても貴重な出来事であることに、今更、気付かされた。


今日が、分かれ道な気がした。


一つには、みんなのタイミングがこの時期に重なったのがあると思う。
この4月からみんな別々の道に進み始めるのだ。

今日集まったコミュニティは7人で、そのうちの5人が会に参加していた。
全員、自分の選択で、これから進むべき道を切り開いて、この場に立っていた。


ある人は、子供を持ちながらもドクターコースを続けることを。
またある人は、行ってたインターンの会社にそのまま就職することを。
別の人は、スウェーデンに4年間の博士課程で留学することを。
さらにもう1人は、今年度で終わるファンドにけじめをつけ、新しいファンドを見つけ、そ
れをベースに博士課程を続けることを。
最後の1人は、岡山に行って、地方創生に取り組みながら起業機会を見つけることを。


みんなが自分なりに妥協なり納得なりして、その道へ進むことを、
自分の責任で選んでいる。
これからどう生きるかは、個人の自由だ。


その道を選んだことに自信と責任を持っていた姿に、
同期にも関わらず僕は惚れ惚れしてしまった。

と同時に、月並みな言葉だけれど
これではいけないと奮い立たされて。
なんだかやりきれなくって。

よく言われる言葉でいってしまうと、刺激を受けた。


ろくに成果出してないし、圧倒的成果を出そうともしてない


では、僕はといえばどうだろうか。
のろのろと日々研究生活送っているだけだった気がする。

「成果を残さないと」とか、「将来どうありたいんだろ自分」みたいなことはもう、毎日考えていた。でもそれって、かなり漠然としていたんだなと猛省している。今。


これまで修士課程から3年間も研究室でいそいそ何かやってきたわけだけれど、僕はまだろくな成果も出せていない。共著の論文が1報あるだけだ(追加で2報はin Preparation)。

何してんだろうってなる。

別にやってきたことに後悔をしているかといえばそうでもないけれど、もっと有意義にこの3年間を使えたかもしれないという自責の念に狩られる。


比較することはそうでない人と比べて自己の幸福感が低いというエビデンスが出ていることを承知で、周りを見てみよう。


学部生のうちからNatureに論文出してしまう人がいる。
高校卒業なのに学士も修士も取らず、いきなり論文だしている成果が認められて博士号を取得してしまう高卒生がいる。

こういう人を見ていると、なんか突出している人を見るとキリがないことはわかっているけれど、自分のだしてきた成果がいかにしょうもないものかと思い知らされる。


ビジネスとかの世界に行くと25歳といえば、もうバリバリ素敵なアイデアを実装して起業するような同期もいれば、すでにそういう起業を成功させて30,40歳の人たちと立派に仕事をしている人たちもいる。


なんということだろう。


要するに僕はもっとできるだろうって思っているだけなのだけれど、
本当に圧倒的な成果を出すための努力に届いていないのが、悔しい。


、、と、燃えてきたところなのに
来週からインターンという謎の機械で東京に6週間も出張しなければならないのが、本当に信じられない。笑


東京では、何して生きてこうか。
本100冊くらい読む?

そのくらいの勢いが多分正しい。
Googleは、いつも10倍スケールで物事を考えてみようっていってるし。