2020年2月28日金曜日

消える学生団体と、チームで仕事のできない2000年世代:利用されているという呪縛

消える、学生団体


近年、学生団体の存在感が急激に薄くなってきていると思う。
もちろんこれには、僕が学生側から遠ざかっていることがバイアスト入っている。しかし、それを差し引いてもなお、なんだか、イケてる学生団体を見ないという声をそこかしこで聞くし、実際に僕も彼らに同感する。

今、優秀な学生はどこにいるのんだろうか、なぜ学生団体をやらなくなってきたのだろう。考えてみたい。

なんとなくのヒントは、幼少期の遊びだという考えに至った。




幼少期の遊びと組織運営(チーム論)



子供の頃、何かを自分で作った経験、ある?

親とか親戚と、遊びそのものを作るとか。
チームスポーツでもいい。


今は個人次第でどうにかなる時代。
入試もそう、高校生にとっての課外活動もそう(マイプロジェクトが典型)。
(※決してマイプロジェクトを批判しているわけではない。)


チームで何かする経験が、幼少期に少ないのではないか??だから、いざチームで何かを成し遂げようとなった時、何をしたらいいかわからない。いや、そもそもチームで何かをする意味がわからないのだろう。

そんな状態のまま、チームでのプロジェクトに参加した暁には、Aというタスクをやらなかった時(もしくはやってしまった時)に何が起こるのか?が想像できてないのである。なぜなら人を介するプロジェクト経験が皆無だからだ。


人は、当然ナマモノで、ナマケモノで。
自分一人の都合で解決させることのできる入試勉強なんかとは訳が違う。

だから、チームで働くようになり始めた時、
相手のことを想像しきることができずに
想定外のトラブルみたいなことに対してあたふたしてしまう。


幼少期の遊びが持つチームビルディング要素


スポーツ少年団とかに体系されるかもしれないが、幼少期に友達や仲間と触れ合う(遊ぶ)という経験があると、人間がいかにナマモノで泥臭くて、非論理的かがわかる。合理性なんて割とあったもんじゃないって。

単にコミュニケーション取ってないだけ、っていう収束のさせ方もあるけれど、それじゃあ元も子もない。今回注目しているのは、幼少期の遊び=擬似プロジェクト体験だ。


砂場でお城作るなんてこともいい例かもしれない。
親戚と一緒にそうやって遊ぶ際、例えばまずは一緒に目的を設定するところから始まるだろう。私と同じ身長の砂のお城で、こういう形をしているのが作りたい、と。

そして、ルールを作るとか、役割を分担するみたいな話にもなってくる。私はお城の骨格を組み立てるから、あなたは必要な砂を持ってきて。石の飾りは君ね。みたいな。

他にもいくらでも例があると思う。



一方、現代が象徴する幼少期の遊びと言ったらどうだろうか。

・お受験。これはお父さんとお母さんに言われて必要な箇所を勉強するだけだ。最近でこそチームワーク要素を見るような実技的試験もあるみたいだけれど、ほとんどの科目が、一人でなんとかトレーニングしたらできるようにできている。

・ゲーム:任天堂Switchとかは家族でするものもあるけれど、ゲームってかなり自己中心的にできている(主人公に都合がいいようにできている)ので、チームビルディングやリアルな組織運営はなかなか学びにくいのではないかと思う。(組織運営を学ぶためのボートゲームとか出てそうだけど、そんなのするくらいなら僕はリアルの組織運営をするべきだと思う。)



2つくらいしか例をあげてないけど、かなり個人ての活動や成果が評価されるようになってきているがゆえに、チーム性がかなり蔑ろに慣れている気がする。これ、実は大人の世界でもきっとそう。




ということで、

なんだかんだ言って、組織の在り方みたいなのがまた、見直され始めているんじゃないかなぁってよくよくよくよく思うのであります。組織論だとかチーム論に関する本もたくさん出てきているし。。


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