「障害者週間」とは...
12月3日は国際連合の定める国際デーのひとつ、「国際障害者デー」です。
我が国日本ではこの「国際障害者デー」である12月3日から
「障害者の日」とされる12月9日までの1週間を
「障害者週間」として定めています。
内閣府によると、この週間では、
「国民の間に広く障害者の福祉についての関心と理解を深めるとともに、
障害者が社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動に積極的に
参加する意欲を高めること」を目的としているそうです。
自分はコトバについて考えてみた
自分もこの機会になにか障害や障害者について考えてみようと思った。
そう考えた時に、そういえば以前「しょうがい」という言葉が
「障害」と「障がい」二通り用いられていることに気づいたことを思い出した。
その時は、なんでだろう...
と思っただけで詳しく調べたりすることはなかった。。
そういうこともあり、今回は
「しょうがい」という言葉の使われ方について調べてみた。
他にもあった!「しょうがい」の表記について
やはり世の中自分が気づいたことってとっくの前に
誰かが気づいてやってるわけで。。
今回の表記についても5年前に内閣府での閣議決定をもとに
検討会が開催されていた。
平成22年11月22日、障がい者制度改革推進会議より、
検討結果が発表されている。
→http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_26/pdf/s2.pdf
この結果によると「障害」という言葉の表記については、「障害」や
「障がい」のほか、「障碍」、「チャレンジド」等々様々な見解がある。
障害者団体によって採用している表記が異なるそうで、
その考え方や運用状況等について
計4回にわたり 10 名の方々からヒアリングが行われ、
それぞれの言葉の肯定的意見、否定的意見が言及されていた。
この4つの言葉については歴史的な背景も大きく孕んでおり、
「障害」という言葉については遅くとも江戸末期から使われていたそうだ。
ここで、それぞれの言葉のメリット、デメリットをごく簡単にまとめてみる。
「障害」
いわゆる社会モデルとしての立場をとっており、
障害者の社会参加の制限が個人としての属性にあるのではなく、
社会との相互作用によって生じるものとしている。
一方、「害」という漢字が当事者の存在を害であるとする
ようなイメージを与えてしまう。
「障碍」
電流を遮断する「碍子」などで用いられるように、
「碍」はカベを意味する言葉であり、
社会モデルの考えがそのまま反映されている。
一方、使用頻度の低さや、
仏教語に由来する「障 碍(しょうげ)」を語源としているという
点が問題となりうる。
「障がい」
単純に「害」という言葉のイメージの悪さを払拭できる。
一方、ひらがなに置換すると、「カベに立ち向かう」といった
社会モデルの意味合いが薄くなる。
「チャレンジド」
障害を持つゆえに体験する様々な事象を自分自身のために積極的に生かして
いこうという思いがこもっている。
ただし、障害者が直面する様々な課題に対して社会全体が
取り組んでいくことを求めるような意味合いがなく、医学モデルを
前提とした印象が強くなってしまう。
※社会モデルと医学モデル
→障害のimpairment(機能障害)を問題化するのが医学モデル。
その反対語としてdisabilityを問題化するのが社会モデル。
米英両国においても広くみると社会モデルの立場をとっており、
筆者は日本もそれに倣って
社会モデルに近い立場を取ろうとしている印象をもつ。
「しょうがい」という言葉に様々な見解があり、
議論も様々な視点から行われていることがわかった。
ここで「どの言葉づかいが適切なのだろう」と考えた時に
どの言葉もよしとする点、悪しとする点がある。
そうこう考えるうちに、問題の本質はどこにあるのだろうか、
と考えるようになる。
そう考えた時に思うのは、コトバ云々では
いわゆる障害者の社会参加の制約等の問題が解決されるわけではないということだ。
綺麗事のような結論となってしまうが、それでもやはり強調したい。
国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「共生社会」の実現のためには
国民一人一人がしっかりと当事者意識を持って
こうした問題に取り組んでいくことであると私は考える。
大切なのは、はいかに「他人事を自分事化」していけるかだと思う。
最後に蛇足かもしれないが、「しょうがい」というコトバについては
日本国内にとどまらず、世界で議論されているようだ。
(だから国際障害者デーがあるのか...)
impairment、disability等々の議論も多くなされていて
こちらもまた勉強してみようと思う。
そういえば昨年の夏に茂木 健一郎氏のお話を聞いた時に
Desirable Difficultyという概念についても教わったなぁ。。
次回はこの辺についての記事も書いてみよう。
「障がい」のほか、「障碍」、「チャレンジド」等々様々な見解がある。
障害者団体によって採用している表記が異なるそうで、
その考え方や運用状況等について
計4回にわたり 10 名の方々からヒアリングが行われ、
それぞれの言葉の肯定的意見、否定的意見が言及されていた。
「障害」、「障碍」、「障がい」、「チャレンジド」
この4つの言葉については歴史的な背景も大きく孕んでおり、
「障害」という言葉については遅くとも江戸末期から使われていたそうだ。
ここで、それぞれの言葉のメリット、デメリットをごく簡単にまとめてみる。
「障害」
いわゆる社会モデルとしての立場をとっており、
障害者の社会参加の制限が個人としての属性にあるのではなく、
社会との相互作用によって生じるものとしている。
一方、「害」という漢字が当事者の存在を害であるとする
ようなイメージを与えてしまう。
「障碍」
電流を遮断する「碍子」などで用いられるように、
「碍」はカベを意味する言葉であり、
社会モデルの考えがそのまま反映されている。
一方、使用頻度の低さや、
仏教語に由来する「障 碍(しょうげ)」を語源としているという
点が問題となりうる。
「障がい」
単純に「害」という言葉のイメージの悪さを払拭できる。
一方、ひらがなに置換すると、「カベに立ち向かう」といった
社会モデルの意味合いが薄くなる。
「チャレンジド」
障害を持つゆえに体験する様々な事象を自分自身のために積極的に生かして
いこうという思いがこもっている。
ただし、障害者が直面する様々な課題に対して社会全体が
取り組んでいくことを求めるような意味合いがなく、医学モデルを
前提とした印象が強くなってしまう。
※社会モデルと医学モデル
→障害のimpairment(機能障害)を問題化するのが医学モデル。
その反対語としてdisabilityを問題化するのが社会モデル。
米英両国においても広くみると社会モデルの立場をとっており、
筆者は日本もそれに倣って
社会モデルに近い立場を取ろうとしている印象をもつ。
問題はどこにあるのか...そもそも本質は言葉なのか?
「しょうがい」という言葉に様々な見解があり、
議論も様々な視点から行われていることがわかった。
ここで「どの言葉づかいが適切なのだろう」と考えた時に
どの言葉もよしとする点、悪しとする点がある。
そうこう考えるうちに、問題の本質はどこにあるのだろうか、
と考えるようになる。
そう考えた時に思うのは、コトバ云々では
いわゆる障害者の社会参加の制約等の問題が解決されるわけではないということだ。
綺麗事のような結論となってしまうが、それでもやはり強調したい。
国民誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「共生社会」の実現のためには
国民一人一人がしっかりと当事者意識を持って
こうした問題に取り組んでいくことであると私は考える。
大切なのは、はいかに「他人事を自分事化」していけるかだと思う。
英語表記について
最後に蛇足かもしれないが、「しょうがい」というコトバについては
日本国内にとどまらず、世界で議論されているようだ。
(だから国際障害者デーがあるのか...)
impairment、disability等々の議論も多くなされていて
こちらもまた勉強してみようと思う。
そういえば昨年の夏に茂木 健一郎氏のお話を聞いた時に
Desirable Difficultyという概念についても教わったなぁ。。
次回はこの辺についての記事も書いてみよう。